死とは第二の誕生である

“生”を正しい視野で捉えていただきたい。

その中で“死”が果たしている役割を理解していただきたいと思います。

人間は、あまりに長い間、死を生の終わりと考えて、泣くこと、悲しむこと、悼(いた)むこと、嘆くことで迎えてきました。

私たち霊は是非ともその無知 ー 死を生の挫折、愛の終局、情愛で結ばれていた者との別れと見なす無知を取り除きたいのです。

そして死とは、第二の誕生であること、生の自然な過程の一つであること、人類の進化における不可欠の自然現象として神が用意したものであることを、理解していただきたいのです。

死ぬということは、生命を失うことではなく、別の生命を得ることなのです。

肉体の束縛から解放されて、痛みも不自由も制約もない自由な身となって、地上での善行の報いを受け、叶えられなかった望みが叶えられる、より豊かな世界へ赴いた人のことを悲しむのは間違いです。
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# by ice-kiss | 2014-12-06 21:06
いわゆる因果律というのは、必ずしも地上生活中に成就されるとは限りません。

しかし、いつかは成就されます。

必ず成就されます。

原因があれば結果があり、両者を切り離すことは出来ないのです。

しかし、いつ成就されるかという時期の問題になると、それは原因の性質いかんに係わってきます。

すぐに結果の出るものもあれば、地上生活中には出ないものもあります。

その作用には、情状酌量といったお情けはなく、機械的に作動します。

罪を犯すと、その罪がその人の魂に記録され、それ相当の結果を生み、それだけ苦しい思いをさせられます。

それが地上生活中に出るか否かは、霊である私にも分かりません。

それは、様々な事情の絡んだ複雑な機構の中で行われるのですが、因果律の根本の目的が、永遠の生命である“魂の進化”にあることだけは確かです。
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# by ice-kiss | 2014-12-05 21:27

大切なのは日常生活

宗教家とか信心深い人は霊的に程度が高いという考えが、人間を長い間迷わせてきたようです。

実際は必ずしも、そうとは言えないのです。

ある宗教の熱烈な信者になったからといって、それだけで霊的に向上するわけではありません。

大切なのは日常生活です。

あなたの現在の人間性、それが全てのカギです。

祭壇の前にひれ伏し、神への忠誠を誓い、“選ばれし者”の一人になったと信じている人よりも、唯物論者や無神論者、合理主義者、不可知論者といった、宗教とは無縁の人の方が、遥かに霊格が高いというケースが、いくらもあるのです。

問題は、何を信じるかではなく、これまで何を為してきたかです。

そうでないと神の公正が、根本から崩れます。
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# by ice-kiss | 2014-12-04 21:33
私たち霊が、地上の人々にもたらすことの出来る最高の霊的知識は、人生が“死”をもって終了するのではないこと、したがって苦しい人生を送った人も、失敗の人生を送った人も、屈辱の人生を送った人も、みなもう一度やり直すことが出来るということ、言いかえれば悔し涙を拭うチャンスが必ず与えられるということです。

人生は死後もなお続くのです。

永遠に続くのです。

その永遠の旅路の中で人間は、内在している能力、地上で発揮し得なかった才能を発揮するチャンスが与えられ、同時にまた、愚かにも摂理を無視し、他人への迷惑も考えずに横柄に生きた人間には、その悪業の償いをするチャンスが与えられます。
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# by ice-kiss | 2014-12-03 22:14
身体が病むということは、精神か魂のいずれかに不自然なところがあることを意味します。

魂が正常で精神も正常であれば、身体も正常であるはずです。

身体に出る症状は、全て魂と精神の反映です。

これを医学では、心身相関医学などと呼ぶようですが、名称はどうでもよろしい。

大切なのは、いつの時代にも変わらない真理です。

魂が病めば、身体も病みます。

魂が健康であれば、身体も当然健康です。

身体の治療、これは大切ではありません。

魂の治療、これが大切なのです。
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# by ice-kiss | 2014-12-02 21:02

霊訓中の霊訓


by ice-kiss