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私たちは一人の例外もなく神の一部です。

赤い肌をした者(銅色人種)もいれば、黒い肌をした者もおり、黄色い肌をした者もいれば、白い肌をした者もいます。

が、その一つ一つが全体の組織の一部を構成しているのです。

そのうち神の摂理が地上全土で理解され、あらゆる肌色をした人種が混ざり合い、お互いに愛念を抱いて生活する調和のとれた地上天国が実現する日が来ます。

今のあなた方には、そうした肌の色の違いが何を意味しているかは理解できません。

が、その一つ一つに目的があり、それなりに生命の法則に貢献しているのです。

その全てが融合しあうまでは、地上にいかなる平和も訪れません。

言いかえれば、表面の肌色でなく、その奥の魂を見つめるようになるまでは、真の平和は訪れません。
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by ice-kiss | 2015-02-28 21:30
ー 悪天候を急に晴天にするには、神はどんなことをなさるのでしょうか?

「急遽人間が大勢集まって祈ったからといって、神がどうされるということはありません。

神は神であるが故に、大聖堂や教会において、そういう祈りが行われている事実を知らされる以前から、人間が必要とするものについては全てを知り尽くしております。

祈りというものは、大勢集まって紋切り型の祈祷文や特別に工夫をこらした文句を口にすることではありません。

祈りは自然法則の働きを変えることは出来ません。

原因と結果の法則に干渉することは出来ません。

ある原因に対して、寸分の狂いもない結果が生まれるという因果律を変える力は、誰にもありません。」
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by ice-kiss | 2015-02-27 23:00
今のあなた方には、父なる神が天にましますものでないことくらいはお分かりになるでしょう。

完全な摂理である以上、神は全宇宙、全生命に宿っているものだからです。

この宇宙のどこを探しても、完璧な法則が働いていない場所は一つとしてありません。

神は、地獄のドン底だけにいるものではないように、天国の一番高いところにだけ鎮座ましますものでもありません。

大霊として宇宙全体に普遍的に存在し、宇宙の生命活動の一つ一つとなって顕現しております。

“御国の来まさんことを”などと祈る必要はありません。

地上天国の時代はいつかは来ます。

必ず来るのです。

しかし、それがいつ来るかは霊の世界と協力して働いている人たち、一日も早く招来したいと願っている人たちの努力いかんに掛かっております。

そういう時代が来ることは間違いないのです。

しかし、それを速めるか遅らせるかは、あなた方人間の努力いかんに掛かっているということです。
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by ice-kiss | 2015-02-26 21:55
ー 子供の頃から動物に対して残酷なことをして育った場合は、霊界でどんな取り扱いを受けるのでしょうか?
動物の世話でもさせられるのでしょうか?

「人間の長い歴史を通じて、動物がいかに人間にとって役立ってきたかを教えることによって、地上時代の間違った考えを改めさせないといけません。

動物界を、あちらこちらと案内して、本来動物というものが、本当に動物を愛し、理解する人間と接触すると、いかに愛らしいものであるかを実際に見せてやります。

知識が増すにつれて、誤った考えが少しずつ改められていきます。

結局は残酷を働いたその影響は、動物だけでなく、それを働いた人間にも表れるものであることを悟ることになります。」
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by ice-kiss | 2015-02-25 20:58
地上の人間は、肩書きやラベルや名称を崇めるのがお好きです。

が、クリスチャンを名のろうと、無神論者を名のろうと、何の違いもありません。

大切なのは、実生活において何をするかです。

仮に、ここに宗教など自分には無縁だと言う人がいるとしましょう。

神の名を唱えても頭を下げようとしません。

しかし性格は正直で、人のためになることを進んで行い、弱い者に味方し、足の不自由な犬が柵を越えるのさえ手助けしてやり、打ちひしがれた人々の身になって考え、困った人を援助しようと心掛けます。

もう一人は、見たところ実に信心深い人です。

あらゆる教義、あらゆる教説を受け入れ、信仰上の礼儀作法には口やかましく気を使います。

しかし心の奥に慈悲心はなく、生活の中において、何ら人のためになることをしません。

前者の方が後者より遥かに宗教的人物と言えます。
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by ice-kiss | 2015-02-24 21:39
宇宙が、いかに巨大にして荘厳であるとは言え、全てが絶対的法則によって支配されていることを知ったからこそ、こうしてその法則をお教えしようと努力しているわけです。

その法則とは、原因には必ずそれ相当の結果が伴うということです。

自分が蒔いたタネは、自分で刈り取るということです。

所詮はごまかすことが出来ない ー なぜなら自分の言動が、その性格と成長具合に消そうにも消せない印象を刻み込むからです。

こうした真理を土台として、真の宗教を築かねばなりません。

大主教の宮殿で何を説こうと、大聖堂で何を説こうと、寺院、教会堂、礼拝堂、その他、世界中いかなるところで何を説こうと、それが今述べた単純な基本的真理と矛盾したものであれば、それは誤りです。

極めて簡単な真理なのです。

人生を霊的摂理が支配していること、お互いが助け合うことが一番大切であること、それが魂を成長させ、性格を形成し、死後に待ち受ける新しい生活に、霊的な備えを与えることになる。

ただ、それだけなのです。
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by ice-kiss | 2015-02-23 21:39
葛藤や苦悩は、いつになっても絶えることはありません。

もっとも、その意味が問題ですが……。

地上では、人間を支配しようとする二つの力の間で絶え間ない葛藤があります。

一つは、動物的先祖とでも言うべきもの、つまり身体的進化に属する獣的性質と、神性を帯びた霊、つまり無限の創造の可能性を付与してくれた神の息吹きです。

その両者のどちらが優位を占め、維持するかは、地上生活での絶え間ない葛藤の中で、自由意志によって選択することです。

私たち霊の世界へ来てからも葛藤はあります。

それは、低い霊性の欠点を克服し、高い霊性を発揮しようとする絶え間ない努力という意味です。

完全へ向けての努力、光明へ向けての努力というわけです。

その奮闘の中で不純なものが捨て去られ、強化と精練と試練を経て、ようやく霊の純金が姿を現します。

私たち霊の世界にも悩みはあります。

しかし、それは魂が自分の進歩に不満を覚えたことの表れであって、ほんの一時のことに過ぎません。

完成へ向けての長い行進の中での、短い調整期間のようなものです。
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by ice-kiss | 2015-02-22 21:01
忘れてならないことは、人間は無限の可能性を秘めていること、人生は常に暗黒から光明へ、下層から上層へ、弱小から強大へ向けての闘争であり、進化の道程を人間の魂は絶え間なく向上していくものであるということです。

もし闘争もなく、困難もなければ、魂にとって征服すべきものが何もないことになります。

人間には、神の無限の属性が宿されではいますが、それが発揮されるのは努力による開発を通してしかありません。

その開発の過程は黄金の採取と同じです。

粉砕し、精錬し、磨き上げなければなりません。

地上もいつかは、邪悪の要素が大幅に取り除かれる時が来るでしょう。

しかし、改善の可能性がなくなる段階は決して来ません。

なぜなら、人間は内的神性を自覚すればするほど、昨日の水準では満足できなくなり、明日の水準を一段高いところにセットするようになるものだからです。
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by ice-kiss | 2015-02-21 22:08
ラベルはどうでもよいのです。

形式はどうでもよいのです。

口先だけの文句はどうでもよいのです。

大切なのは“行い”です。

“行為”です。

つまり各人の毎日の“生活”そのものです。

私たち霊は、因果律という絶対的な摂理を説きます。

つまり誰一人として、その神の摂理のウラをかくことは出来ません。

ごまかすことは出来ません。

自分が自分の救い主であり、贖(あがな)い主であり、自分の過ちには自分が罰を受け、善行に対する報酬も自分が受けると説くのです。

また、神の摂理は機械的に機能し、自動的に作用すると説きます。

すなわち親切、寛容、同情、奉仕の行為が、自動的にそれ相応の結果をもたらして霊性を高め、反対に利己主義、罪悪、不寛容の精神は自動的に霊性を下げます。

この法則は変えようにも変えられないのです。

みっともない執行猶予も、安価な赦免もありません。

神の公正が、全宇宙に行き渡っております。

霊的な小人が、巨人のふりをしてもごまかせません。

死の床での悔い改めも通用しません。
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by ice-kiss | 2015-02-20 22:11
“生”を正しい視野で捉えて頂きたい。

その中で“死”が果たしている役割を理解して頂きたいと思います。

人間は、あまりに長い間死を生の終わりと考えて、泣くこと、悲しむこと、悼むこと、嘆くことで迎えてきました。

私たち霊は、是非とも無知 ー 死を生の挫折、愛の終局、情愛で結ばれていた者との別れと見なす無知を取り除きたいのです。

そして死とは、第二の誕生であること、生の自然な過程の一つであること、人類の進化における不可欠の自然現象として、神が用意したものであることを理解して頂きたいのです。

死ぬということは、生命を失うことではなく、別の生命を得ることなのです。

肉体の束縛から解放されて、痛みも不自由も制約もない自由な身となって、地上での善行の報いを受け、叶えられなかった望みが叶えられる、より豊かな世界へ赴いた人のことを悲しむのは間違いです。
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by ice-kiss | 2015-02-19 22:31

霊訓中の霊訓


by ice-kiss